長男(5)が現在カナダで通うキンダークラスは30人くらい生徒がいますが、日本人は恐らくうちの子1人。国籍の偏りも少ないように見えます。

そんな多様な環境を見ていたら、ロサンゼルスから日本に戻った小3の時の感覚がまた蘇ってきました。

アメリカにいた時は、人と違うのが当たり前でした。髪の色、肌の色、母国語、食文化、服のセンス、物事の好き嫌い。一緒じゃなきゃいけないのは学校でのルール(何時に登校する、どんな持ち物が必要、など)くらいで、それ以外は違って当たり前。

これはもちろん、ロサンゼルス だったからということも、大人になってから他の州に住んでいた方の話しを聞いて気付きました。私は差別のない地域で幼少期を過ごすことができて、とてもラッキーだったのだと思います。

日本に帰って、髪の毛の色がみんな同じことにすごく驚いた気がします。自分と違う意見、違う趣味趣向に対しても、過剰に反応する。

でも、これは単一民族だったら一緒なのが当たり前だから仕方のないことだなと今は思えるのですが、当時は戸惑いました。

見た目は日本人なのに、中身はアメリカ的な感覚と表現するのが正しいのでしょうか?

今や、インターネットやSNS のおかげであらゆる国の人とつながり、物理的な距離関係なく関係を持つことができ、コロナによってそれは更に加速しました。

英語はもちろんですが、それと同時に「人との違いを許容できる力」の必要性が問われている気がします。

それは日本人同士でも同じことで、昔は多くの人が同じテレビ番組を見て、同じ俳優や歌手が好きだったかもしれませんが、今やインターネット経由でさまざまな情報に触れて、お互いに全く知らない歌やコンテンツを見ていたりします。

同じ価値観で生きていないのに、なんとなく日本社会では今でも「同じ価値観」でいることが当たり前と思われているような気がします。

日本に限らず、価値観の押し付けや違う価値観の否定から差別や争いが起きる。

「人と違う」

ということを肯定的に捉えられる人が増えたら

もっともっと各々が生きやすい世界になるのではないかなと思います。

なんていうことを骨折した腕のリハビリ帰りに歩きながら考えていました。