最近、「罪悪感」ってやつについて考えていた。
なんて言うとちょっと深刻そうだけど、実際は仕事帰りの車の中で、ただぼんやりしていたときにふと浮かんできたのだ。
「私って、罪悪感まみれで生きてきたんじゃないか?」って。
小さい頃からそうだった。
誰かに何かを言ったあと、「あれ、言わなきゃよかったかな」「もしかして傷つけたかも」なんて布団の中で反省会。

誰にも頼まれてないのに、勝手に頭の中で再生して、勝手に落ち込んでいた。
いったい誰のための謝罪会見なんだろう、って今なら思う。
でも思い返せば、もっと小さい頃――
たとえば幼稚園とか、小学校低学年の頃なんかは、そんなこと考えもしなかった気がする。
「お姉ちゃんだから」って言われても、「お姉ちゃんだからこれは私の!」って主張してたような記憶もある。
欲しいものは「欲しい!」って言ってたし、やりたいことは「やる!」って当たり前に思ってた。
いつからだろう、人の顔色をうかがうようになったのは。
多分、アメリカから日本に帰ってきたあのときだ。
自分の言葉が少しズレていることに気づいて、笑われたり、変だと言われたりするのが怖くなった。
それ以来、何かあるたびに「ごめんね」って、先に言ってしまうクセがついた。
それが大人になっても続いていて、なんでも「私が悪かったのかも」と思ってしまう。
でも最近、ちょっと違う風が吹いた。
このあいだ、ロサンゼルス時代の幼なじみに久しぶりに会った。
彼女は日本人だけど、アメリカで生まれ育った自由な空気をそのまままとったような人。
久しぶりに会った彼女は、相変わらず自由で明るくて、でもふとしたときに芯のあるまなざしをしていた。
そんな彼女に言われたのだ。
「よく小さい子連れて、カナダ移住しようと思ったね!すごいよ!」
そのとき、思わず笑ってしまった。
そんなふうに言われると思っていなかったから。
自分では「なんとなく」選んだ道だと思っていたし、「まぁ、そうするしかなかったから」と思っていた。
でも、その「すごいよ」の一言が、車の中で静かに響いた。
ああ、私は、自分の人生をちゃんと選んできたのかもしれない。
少し不器用でも、ちゃんと、自分なりに。
もちろん、人に迷惑をかけていいわけじゃない。
金銭的な損害や、暴力や、法律に触れるようなことはもちろんだめだ。
でも、「ちょっと気を遣わせたかも」とか、「自分勝手だったかも」くらいなら、ちゃんと話して、必要なら謝って、それで終わりにしてもいいんじゃないかと思う。
それなのに、いつも罪悪感を引きずって、勝手に自分を責めて、またそのことに罪悪感を感じるという、無限ループに陥る。
それって、もはや自分で自分の首を絞めているようなものだ。
過去は過去、今は今、未来は未来。
過去の延長線上に未来を描く必要なんて、本当は一切ないのだ。
ワガママでも、自分のために選んだ人生なら、それはちゃんと意味がある。
もっと自由に、自分の足で、これからを選んでいっていいんだと、今なら少しだけ思える。
そんなことを、今日も仕事帰りの車の中で考えていた。
なんだろう、なんか急に。
フロントガラス越しの空が、いつもよりずっと広く感じたからかもしれない。