子どもたちの会話は、まことにおもしろい。
特に、3歳の次男だ。
彼はルー語を話す。
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「これfix itして」
「このおもちゃbrokenしてる」
「これopen it して」
ルー大柴さんを知っている人がどれくらいいるのかは、もはや分からない。
だが、そんなことはどうでもいい。
修理して、壊れて、開けて。
日本語より、英語の方が先に出る。
「Oh no!」
もうすぐ2歳になる三男は、そう言って何かを拾う。
そう言って、手を拭いてという。
そう言って、助けてとうったえてくる。
かわいい。
ただひたすらに、かわいいのだ。
***
思考する言語は、母国語の方がよいらしい。
考えを深めるなら、日本語なのだろう。
でも、この子たちがもしカナダでずっと学校に行ったら?
英語の方が、楽になるのではないか。
私も、英語の方が言いやすいことがある。
Yes か No か。
言葉の構造が、はっきりしている。
日本語は、どうも曖昧だ。
それが、いいのか悪いのかは分からない。
ただ、日本語にはやさしさがある。
英語には、まっすぐさがある。
***
時々思う。
この子たちは、どこへ向かうのか?
言葉は?
文化は?
アイデンティティは?
友人の話を思い出す。
母はコロンビア人、父はアメリカ人。
そして、カナダで子どもが生まれた。
英語とスペイン語。
どちらもあふれる家。
「どうなの?」と聞くと、彼女は笑った。
「家ではなるべくスペイン語で話すかな?将来どこに住むかもわからないし」
我が家もそうかもしれない。将来はわからない。
***
子どもたちは、英語で話しかけると英語で返す。
日本語で話しかけると日本語で返す。
今のところ、我々の計画どおり。
この先、どうなるのか?
分からない。
ただ、世界にはいろんな人がいる。
それを、小さい頃から知ってくれたら、それでいい。
世界は広いのだ。