私の幼少期の記憶は、アメリカから始まる。3歳から小学校3年生まで、私はロサンゼルスで育った。父の仕事の関係で家族とともに5年間をアメリカで過ごした。学校の始まりも、日常の風景も、私にとってはアメリカが当たり前だった。
でも、小学3年生のある日、突然その「当たり前」が終わった。家族で日本に帰国し、転校して初めて日本の小学校に足を踏み入れた。そこは、アメリカとはまるで違う世界だった。同じ髪の色、同じ肌の色の子どもたちが並ぶ教室。座席は男女隣り合わせで、一人ひとりが独立して座るアメリカの教室とは全く違った。
服装もみんな似ていて、私が履いていたスパンコール付きのスパッツは完全に浮いていた。違う意見を言うと、なんとなく変な顔をされる気がして、それ以来、人の顔色を見て意見を合わせる癖がついた。トイレも驚きだった。和式トイレを初めて見た私は、その使い方が全くわからず、妹と一緒に家までトイレを我慢して帰ったのを今でも覚えている。
そんな日々の中で、どこか心の奥底で「アメリカに帰りたい」と思っていたのだろう。高校に進んでもその思いは消えず、英語だけが自分の取り柄だと思い込んで大学では英語を専攻した。そして、就職活動では何をしたいのか分からず迷走しながら、「英語とパソコンができればつぶしが効くだろう」と選んだIT企業に就職した。
その頃、ふと「もし留学していたら何か変わっていたのだろうか」と考えることがあった。けれど、3人兄弟の長女だった私は、留学費用のことを考え、親に「行きたい」と言えなかった。自分が言い出せば、きっと妹や弟も行きたいと言うだろうと思ったからだ。
そんな時、会社の後輩が「オーストラリアに帰りたい」と言って会社を辞めた。その子にとってはオーストラリアが「帰る場所」だったという。その言葉に、私自身の中にも同じような感覚があるのではないかと思った。しかし、すぐには実行に移さなかった。そして子どもができ、海外移住を検討し始めた。「帰りたい」――私にとってアメリカは難しかったけれど、隣国カナダには行けた。そして、今こうしてカナダにいる。
カナダとアメリカは同じようで全然違う。ただ、文化の許容度という点ではカナダの方が私には合っている気がする。
英語で話すときと日本語で話すとき、自分の中の思考パターンが変わるのを感じる。日本語を話すときは他人に配慮し、自分の意見を抑え、他を立てることを優先する。一方で、英語ではストレートに自分の意見を言える。不思議なことに、英語のほうがYesかNoかをはっきり伝えられる気がする。
カナダ人の同僚から「日本語も英語も話せて羨ましい」と言われることがある。「自分は英語と少しのフランス語しか知らない」と。そのとき、自分の中で違う言語を話せることが、違う文化や価値観を持つことにつながっているのだと改めて気づいた。それは案外貴重なことなのかもしれない。多様性を受け入れる幅が広がるのだと。
小さい頃、アメリカから日本へ転校したことは幼い私にとって苦しい経験だった。でも、今はその経験のおかげで今の自分がいると思える。私の子どもたちも、いつか同じように思ってくれたらいい。どんな経験も、きっと未来のどこかで役に立つと信じているから。